マリアナスネイルフィッシュは、なぜ“最深部の魚”なのに急がないのか――超高圧の海で小さなひれの刻み泳ぎが消えなかった理由

Creatures You Didn’t Expect

最深クラスの魚なのに、動きは驚くほどせかせかしていない

「海でも最深クラスにいる魚」と聞くと、もっと極端な生き物を想像しがちだ。鋭くて硬く、過酷な環境に真正面から勝つための、特別な強さを備えていそうに思える。

けれど、マリアナスネイルフィッシュの映像を見ると、その印象は少し崩れる。大きく突進するでもなく、小さなひれを刻むように動き、静かに海底近くを漂っている。

この「超深海の魚なのに急がない」感じこそが、この魚のおもしろさだ。静止画では見えにくいが、実際の泳ぎ方の細部を見ると、ただ遅いのではなく、細かく確実に動いているように見える。深海の底で生きるなら、もっと力強い移動法に置き換わってもよさそうなのに、なぜそうならなかったのか。

マリアナ海溝の底では、速さより先に壊れず動けることが重要になる

マリアナスネイルフィッシュが暮らすのは、太陽光が届かず、水圧が桁違いに高い世界だ。主にマリアナ海溝の約7,000〜8,000m帯で確認されており、まず問われるのは「速く動けるか」より「その体で機能し続けられるか」になる。

ここでは、硬さや剛性を増やせば単純に有利になるわけではない。むしろ、ガスを含む空間を持たないことや骨の低石灰化、高圧下でも膜やタンパク質が機能する分子レベルの適応が重要だと考えられている。

守るべきなのは骨や筋肉だけではない。細胞の中で働くタンパク質や膜まで含めて、身体全体が高圧の中で破綻しないことが最優先になる。だからこそ、泳ぎもまた、力任せの推進より壊れず扱える動きであることが意味を持つ。

大きく推進するより、小さなひれで刻んで姿勢を保つほうが都合がいい

マリアナスネイルフィッシュの小さなひれの動きは、弱さの印とは限らない。映像からは、海底近くで姿勢を保ち、位置を微調整しながら動くのに向いた刻み泳ぎにも見える。

深海底では、広い空間を高速で巡航するより、目の前の地形や餌の分布に合わせて細かく動く場面が多い。大きな尾びれで一気に進む方式とは、こうした海底近くでの微調整主体の動きでは相性が違う可能性がある。

https://www.nationalgeographic.com/science/article/141219-deepest-fish-mariana-trench-animal-ocean-science

この動きは、前へ進むことだけを目的にした泳ぎではない。余計な姿勢変化を起こさず、その場で確実に身体を扱うための泳ぎとして見ると、むしろよくできている。超深海魚の暮らしを、耐圧の一般論だけでなく泳ぎ方の細部から見ると、この小刻みな運動にははっきり役割があるように感じられる。

頼りなく見える体つきは、超深海で無理が出ないための形かもしれない

この魚は、いわゆる「深海の王者」らしい見た目をしていない。透明感のある体や、強靭には見えない骨格は、どこか頼りなく映る。

だが、その頼りなさこそが、超深海では合理的なのかもしれない。圧に耐えるためにひたすら硬くなるのではなく、高圧の世界でも全体として無理が出ないように作り替えられている、と考えるほうがしっくりくる。

深海性のスネイルフィッシュ類では、骨の低石灰化や、高圧下でも働ける分子レベルの調整が注目されてきた。細胞を保護する物質として知られるTMAOの話も、こうした適応の文脈でよく語られる。体の柔らかさは頼りなさではなく、高圧下で機能を保つための設計として見るほうが自然だ。

獲物を追い回す暮らしではないから、急ぐ必要そのものが少ない

もうひとつ大きいのは、この魚の暮らし方だ。もし高速で逃げる獲物を追い続ける生活なら、もっと別の体つきや推進法が選ばれていたはずだ。

しかしマリアナスネイルフィッシュは、深海底で見つかる小型の甲殻類などを食べると考えられている。そうした食性を踏まえると、高速遊泳よりも、海底近くで見つけて近づくような近距離での採餌に適している可能性がある。

https://www.science.org/content/article/meet-new-deepest-fish-world

深海では、エネルギーそのものが貴重だ。食べ物が豊富な浅海の感覚で「動けるだけ動く」ほうが有利とは言えず、急がないこと自体が、収支の合う生き方になっている。移動コストまで含めて考えると、小さなひれで刻みながら必要な分だけ動くことには、かなり合理性がある。

超深海で選ばれたのは、強そうな形ではなく崩れにくい動きだった

マリアナスネイルフィッシュの小さなひれの刻み泳ぎが消えなかったのは、それが中途半端だったからではないのかもしれない。超深海という極端な環境で、速さより安定、過度な剛性より高圧下で破綻しにくいつくり、派手な推進より細かな制御が重視された結果である可能性がある。

この魚を見ていると、「過酷な場所の生き物は、より攻撃的で、より重装備になる」という直感が少し揺らぐ。極限環境は、生物を必ずしも強そうな姿にするわけではない。

ときには逆に、静かで、柔らかく、急がない形へ押していく。つまりこの魚が急がないのは、能力が低いからではなく、超高圧の海で小さく刻んで確実に動くこと自体が合理的だからだ。

あの小さなひれの刻み方は、深海の底で妥協して残った動きではない。あの場所で壊れずに生きるために、きちんと磨かれた動きなのだと思う。

この視点で見ると、深海魚の運動や体の柔らかさ、極限環境での移動コストの違いも、図鑑的な特徴以上におもしろく見えてくる。

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最深クラスの魚なのに、動きは驚くほどせかせかしていない
マリアナ海溝の底では、速さより先に壊れず動けることが重要になる
大きく推進するより、小さなひれで刻んで姿勢を保つほうが都合がいい
頼りなく見える体つきは、超深海で無理が出ないための形かもしれない
獲物を追い回す暮らしではないから、急ぐ必要そのものが少ない
超深海で選ばれたのは、強そうな形ではなく崩れにくい動きだった